早番、散髪、そして新鮮枝豆 と何をもって「無駄な延命」とするのか

今日はハハが見舞いに行ったので、早番仕事で1時過ぎに戻ってからは、散髪と買い物。ばっさりいこーかなーとも思ったのだけど、2センチ程度で済ませてしまった。なかなか思い切れないもんだな。

どーぶつ病院の看護師サンの1人に、実家で野菜をいろいろ作ってる人がいて(出荷もしてるんだと思う)、この時期になると袋詰めされた枝豆をいっぱい持参して1人1袋くれる。(そして「余った」とゆー理由であたしは2袋もらってしまった) 美味いんだ、これが。獲れたてで新鮮だし。何たって同じ都内だからね、宅急便で送るなんてことせずの「直参」だもん。こりこり新鮮だし、ビールじゃなくて冷えた水道水でも全然問題なしでばくばくいける…おかげでいまだに満腹で苦しい。枝豆って(に限らず豆類は、か)、あとでハラが膨れるんだよねぇ。

夕飯は、食べごろになったアボカドがあったので、近所の魚屋で買った美味そうなムキエビとでスパイシー炒めにする。レシピ通りの時間と調味料で作ったのだけど、カレー粉はもっといっぱい入れてもよかったし、最初に蒸し焼き状態にするムキエビはもっと短い時間でもよかった。レシピにこだわらず、見た目や味見した感じで自己流に決めてくことも大事なんだろな。不慣れな料理人なんでその判断が難しいのだけども。

帰宅したハハは、やはりチチが「眠ってばかり」で「会話もろくにできない」し「見舞う甲斐がなくて余計疲れる」とぼやいた。あたしもまったく同じ気分に陥るのでよくわかる。そして今日の夕刊の、『経管点滴で栄養、両手にミトンをはめた状態で生きながらえさせるのも「無駄な延命」のひとつではないか』みたいな記事に、2人してさらに滅入ってしまった。
「無駄な延命は望まない」のは、家族の意思でもあったけど、何が無駄で何が無駄でないのかの判断は素人に咄嗟に出来るものではない。あのとき(1/19)、チチが発作を起こして救急車を呼んだけど、そしてそのためにそれから4か月近くに渡る入院生活を強いらせ、療養病院への転院となったわけだけど、「どこで食い止められたか」と考えると「救急車を呼ばなければ」ということになってしまう。集中治療室ではすでに点滴始めてたし、以降、それを外す機会はついに持てなかった。過去に何度も「また自力で食べられるように」なってきたことで、楽観してしまったのかもしれない。

自力で食べることもしゃべることも出来なくなって、その状態を果たして「生きてる」と言えるのか…何度も頭をよぎる疑問で、ここから(多少なりとも)復活の兆しを望めるのならそこに賭けたいと思う一方、この5か月で悪化こそすれ好転はしていないじないか、とも思う。
いまの日本医療は「無駄な延命はしない」傾向になりつつも、実際はしてるに等しいのが現状。(だってその方が「お金」になるし) 米国に「誤嚥性肺炎」で亡くなる人が少ないのは、そういう状態(経管点滴等)になる前に自然死を迎えさせるから、なんだそーだ。そんな記事読んじゃうとね、考えちゃうじゃない、やっぱり。では、いつ、何をどうすればよかったのか、って。
これ以上書くとドツボとゆーか、明日も早番なのにさらに滅入る気がするのでこのへんで。
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by yukimaru156 | 2015-06-05 00:09 | そんな1日 | Comments(0)

ちぎり絵ざっか作家 さゆきの  雑記帳


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