最強のふたり 2012年フランス
育ってきた環境も(青年ドリスはスラム育ちの前科持ち)趣味も好みもまるで違う2人が、やがては「気の合う2人」になってくのだけど、それはまぁ、観る前からわかってたので、「そこをどう描くのか」を楽しみにしてた。
先週行ったときは、1時間前にチケット売り場に立ったのに満席で入れず、昨日行ったのもやはり1時間前だったのだけど、空いてたのは前から5列目より前のみ。友人が『おもしろかった!』と言ってたのもあり、また満席状態てことに“そんなにいいのかぁ~”とちと期待しすぎた感はある。つまらなかったわけではもちろんなくて、何とゆーか、フツーによかった、程度?そこそこ笑えるし、ちょっと切なくもなったりするのだけど、『いいよ、絶対観てよ!』にはならないなぁ。残念だけど。
で、何が「残念」なのか考えるのだけど、ちょっと難しい。でも、前科持ちで、面接の日にさりげなく調度品のひとつを盗んだりもしたドリスが、その後の介護生活の中では高価な品々には目もくれず、『排泄まで手伝うのは絶対断固として拒否する!』ときっぱり宣言した次のシーンでは排泄を手伝ってるとか、そのあたりの心境の変化ってのはどのあたりから?と思うのだ。
一方の富豪、フィリップは、ドリス採用に反対する家人たちに対して『彼は私に同情しないからいいのだ』というあたりは誰しも何となくは共感できるだろう。確かにドリスはフィリップに同情していない。食べてるチョコを欲しがるフィリップに対し『これは健常者専用』と言い放ち、観劇や芸術鑑賞にはことごとくケチをつけ、文通相手に勝手に電話したりとか、やりたい放題に振舞ってる。振り回される以外に成す術のないフィリップは、時に顔をしかめ、本気で怒り、泣きそうになったりもするのだけど、でも彼は知っているのだ。そういった「喜怒哀楽」を与えてくれるのはドリスだけだ、と。富豪で全身麻痺、となったら、最新の設備と優秀なスタッフがいくらでも揃うだろう。でもそこに彼が欲しいものはない。受身である以外に何も出来ない彼を、対等に扱ってくれる人はいないのだ。(これは彼らだけの問題ではなく、要介護の者と介護者との問題だな)
互いに生身である以上、そこには様々な感情の交錯があるわけで、心境の変化もまたある。ドリスの変化、フィリップの変化、がいまひとつわかりにくいまま、2人は意気投合し、無邪気に笑い合い、電動車椅子の改造(スピードをマックスにするとか)から、夜遊びから、パラグライダーまで楽しむ。それはそれでいいのだけど、“それのどこが「最強」?”とか思ってしまったりもするのだよねぇ。原題はもちろん違うと思うのだけど。(調べようと思ってて忘れてしまった)
映画のラスト、エンドロールにちょろっと、「本物の2人」が登場する。映画の中でスマホが使われてたりするので最近の話なんだろなとは思ってたけど、映画の中の2人と(国籍はともかくとして)、さして違わない年に見えた。この2人の年齢差、結局わからなかったな。さして重要じゃないとも言えるけど、劇中で明かしてくれた方が「親子ほど」なのか「年の離れた兄弟」程度なのか、その格差がわかってよかったのに。そーそ、麻痺になってどのくらいなのかとか、大恋愛した奥さんがいつ、いくつで何で亡くなったのかとか、そゆとこもわからず仕舞いだった。そういうのって、話の筋に関係なくても「深み」にはなるのにな。
今日はまったりとした、休日らしい休日を過ごした。昨日の買出し品の仕分けとか(革屋で買ったハギレは20枚だった。色も質もさまざまで嬉しい。いったい何枚しおりが作れるんだろ)、近所の神社のお祭りに顔を出して、目当ての「川場村のソーセージ、山賊焼き」をゲットしたり。いつもボロ市に出るのだけど、美味しいのよぅ、これ!いっぱい入ってるしねー。