高齢者住宅
一度、展示会に来てくださったこともあって、とても素敵な老婦人だったことを記憶している。足腰もちゃんとしてたし(と言っても6、7年は昔)、身寄りがいないとはいえ、人生を楽しんでいるようにも見えた。弟さんは某老舗百貨店の社長だったし(先に逝かれてしまったのだけど)、ご自身は弁護士だったというのだからお金持ちも道理というか。『身寄りがなくなってこの先何があるかわからないから、自分でちゃんと判断できるうちに老人ホームに入るわ』と言って入居されたとき、その潔さに感心したのだけど、その「高齢者住宅」についてちょっと考えてしまった。
『転ぶと危ないからと言って散歩させてくれない』『噛み応えのない食事ばかりなのでつまらない(今年94だそうだけど、入居するまで「お肉大好き」とがっつり食べてみんなを驚かせてた)』『プールにも通えなくなってしまった』という嘆きばかり聞いていたのだが(人づてにだけど)、そうやってホームの規則やスタッフの手厚すぎる介護に自由を奪われ、とうとう「ボケて」しまったのだそうだ…お年を考えれば決して早いわけではないし、そこの入居によって痴呆になったとも言い切れないだろう。それでも「自分でやらせてもらえない」と言う言葉を思い出すと、やりきれない気分になる。手厚い介護が逆に痴呆を進めたのではないか、いや、それよりも誤りだったのは、十人十色のご老人たちを一律に面倒見ようとして個々に対応しなかったせいではないか、と思えて仕方がないのだ。ホームは、彼女がどれだけ自力で出来るのかの判断をしようとしなかったのではないか、と。
過日行っていた千葉某所では(に限らないと思うけど)、90を過ぎたおじいさん、おばあさんらが朝6時に起きて田畑を耕している。朝食を食べてまた畑に出たり、山に入って山菜をとったりしてる。お金に困ってるわけではなく、「それが習慣だった」からで「そうしないと体が調子を崩」し、「出荷できるほど大量には作れないけど、自分らの食事は何とかなる」からだそうだ。
太陽を浴び、適度な汗を流し、夜はたっぷりゆっくり休む。自然とともに生き、まさかの不安はあってもギリギリまで人に頼らない。それは傍から見ればちょっと危なげかもしれない。けれどその緊張感が日常の張りとなって、「長寿で健康の秘訣」になっているのではないかと思う。長寿であっても健康でなければ、日常はきっと退屈だ。
と、あれこれ考えてしまった。土いじって暮らすのは大変そうだけど、寝て暮らすよりはいいだろな、きっと。
昨日に引き続き、ちぎりは悪戦苦闘中。その話はまた。